昔々あるところに、とても優しい女の子がいました。女の子の名前はクラリス。彼女は、森に生きる民、森の人でした。
森の人の暮らしは、それはそれは質素なものでしたが、穏やかで、豊かで、生命への愛に満ちておりました。生命とは、なにも動物に限った話ではありません。森の人は木々と会話をするのが得意でしたし、踏みしめる土、降り注ぐ雨、頬を撫でる風なども、森の人にとっては慈しむべき生命なのです。
自然と一体になり、小さな精霊——例えば土の精霊や水の精霊、風の精霊と言ったものです——と友達になる事ができる森の人は、外の世界の人達からは魔法とでも呼ばれるものを使う事ができました。森の人にとっては、不思議な事ではありません。小さな小さな、手のひらに乗るほどに小さな精霊の力を、ほんの少し貸してもらうだけなのです。
たくさんの人々とたくさんの自然とたくさんの精霊に愛されて育ったクラリスは、掛け値なしの美少女となりました。美しい森の人の中でも一際美しい彼女は、何よりも血の流れる事を嫌いました。森の人は野菜や果物を食べ、肉を食べるという事はしません。だから森の外に、友達の鹿さんを食べてしまう人がいると聞いた時はショックでしたし、戦争などというものがある事を知った時には悲しみと恐怖に心が沈んでしまいました。
「ねぇ、クラリス。森の外に出てはいけないよ。私達はこの森の中で生きて、そしていつかは自然に帰るんだ。森の外には、クラリスを傷つけるものがたくさんあるからね。森の人は、森の中にいるから森の人なんだ。森から出たら、森の人とは呼べないだろう?」
それは何度も何度も言い聞かされたお母様の言葉です。クラリスはその言いつけを頑なに守り、冒険好きの友達にそそのかされても決して森の外に出る事はありませんでした。
しかし——クラリスが森の外に出る事はなくても、森の外の人は彼女たちをそっとしておいてはくれませんでした。
しんと静まり返った夜の事でした。皆が夢の世界に沈む中、クラリスは密かに夜更かしをしておりました。手のひらに集まった風の精霊が、ぼんやりと薄闇を照らします。
「星の精霊さんも、いるのかな。あの空の向こうには何があるんだろう……」
木々の隙間から覗く満天の星空に手を伸ばし、クラリスは呟きます。精霊はチカチカと発光しながら、蛍のように飛び回りました。精霊は言葉を話す事はありません。森の人にできるのは、心を同調させる事。言葉がなくても、心が寄り添えば友達にはなれるのです。
「ふふっ、知らないよね。そう、知ってるはずがない……だって、森の外には誰も出ないから……お空の事も、誰も知らない」
そう漏らすと僅かな寂寥感がクラリスを襲いましたが、しかし外の世界への好奇心は森の中の安定した暮らしの前では簡単に収まりました。傷つく世界に出て行く必要はないとのお母様の言葉が、彼女の憧れを断ち切ります。
クラリスは地面に寝そべると、目を閉じて風の精霊へと心を重ねました。優しい風が彼女の体を包み、ふわりと浮かびます。そのまま腕を広げれば、無重力の心地良さが心に染み込みます。彼女はこうして夜を過ごす事が好きでした。薄く瞼を開けば、綺麗な満月が夜空を照らしています。思わず微笑みがこぼれました。
けれど不意に身を包んでいた風が消え——クラリスは地面に背中を打ちました。
「痛っ……ちょっと、痛いよ……もう、どうしたの?」
風の精霊と友達になったばかりの頃は、うまく心を通わせる事ができずにこうして落っこちたものでした。昔を思い出して苦笑していると、違和感がクラリスを襲います。風の精霊の心がどこにもありません。心だけではなく、夜を照らしていた精霊の姿そのものが忽然と消えていました。
精霊がいなくなるのは珍しい事ではなく、すぐにへそを曲げる精霊もいます。しかしクラリスは何だか嫌な予感がしました。果たして、その予感は的中してしまいます。森の奥深くから、不気味な音が響いてきました。
ガシャン、ガシャン、という聞きなれない音。たくさんの人が行進しているようにも聞こえます。でも、一体誰が。クラリスの心に、初めて戦争というものを知った時以来の、恐怖が押し寄せてきました。
赤い赤い、まるで血のような光が森を照らしています。クラリスは咄嗟に身を隠し、ついに姿を見せた人達を息を殺して眺めました。それは、お母様が教えてくれた、森の外の人でした。鈍色の甲冑に身を包み、木々を燃やした松明を手にしています。その腰にはありとあらゆる命を奪うともいう、剣。人を殺めるための武器を初めて目にしたクラリスは、不安と恐怖に心が塗り潰されていくのを感じました。
鈍色の甲冑の一団が動きを止めると、その先頭に一人の女性がいる事にクラリスは気付きます。夜に溶け込む闇色の鎧を身に付けた、銀髪の女性。赤々と燃える松明に照らされる薄紫色の瞳はとても鋭く、思わず身がすくみました。ギロリと辺りを見渡すその目に、捕まったような気がしたからです。確かに目が合ったように思ったのですが、しかし銀髪の女性はクラリスには気付いていない様子でした。
クラリスが安堵に思わずため息をついたと同時に——銀髪の女性が、松明を放り投げました。その光景は、クラリスには非常にゆっくりと感じられました。ごうごうと燃える松明。命をじわじわと削られている木の悲鳴が聞こえてくるようでした。その炎が投げられた先は、静かに寝息を立てている皆のところでした。
その夜の事を、クラリスが忘れた事はありません。暮らしてきた世界、森は焼かれました。お母様もお父様もお友達も全部、目の前で焼かれていきました。眠りから覚めた皆を襲ったのは激しい痛みと絶望。その全てが、クラリスの心に流れ込んできました。森の外からやってきた悪魔は、何も言わずに人を殺し、木々を殺し、そしてその光景を眺めていたクラリスの心を殺しました。優しい女の子はその日、死にました。
焼けた遺体を見つめる少女の目に、光は灯っていません。そこにあるのはただ、激しい怒り。炎のように燃え上がる怒りでした。その怒りに、炎の精霊が付け込みます。炎の精霊は、風の精霊のように穏やかな性格をしてはいませんでした。憤怒に染まるクラリスの心を軽く一押しし、彼女は——復讐に取り憑かれてしまいました。
森の外からやってきた悪魔に全てを奪われたクラリスは、もう森の人と呼ばれる事はありませんでした。彼女は森の魔女。炎を操り人々を焼き焦がす、森の外の全ての人に恐れられる存在となってしまったのです。
彼女は今日も、まるで亡霊のようにさまよい続けています。全てを奪った、銀髪の女騎士への復讐を果たすためだけに。
森の人の暮らしは、それはそれは質素なものでしたが、穏やかで、豊かで、生命への愛に満ちておりました。生命とは、なにも動物に限った話ではありません。森の人は木々と会話をするのが得意でしたし、踏みしめる土、降り注ぐ雨、頬を撫でる風なども、森の人にとっては慈しむべき生命なのです。
自然と一体になり、小さな精霊——例えば土の精霊や水の精霊、風の精霊と言ったものです——と友達になる事ができる森の人は、外の世界の人達からは魔法とでも呼ばれるものを使う事ができました。森の人にとっては、不思議な事ではありません。小さな小さな、手のひらに乗るほどに小さな精霊の力を、ほんの少し貸してもらうだけなのです。
たくさんの人々とたくさんの自然とたくさんの精霊に愛されて育ったクラリスは、掛け値なしの美少女となりました。美しい森の人の中でも一際美しい彼女は、何よりも血の流れる事を嫌いました。森の人は野菜や果物を食べ、肉を食べるという事はしません。だから森の外に、友達の鹿さんを食べてしまう人がいると聞いた時はショックでしたし、戦争などというものがある事を知った時には悲しみと恐怖に心が沈んでしまいました。
「ねぇ、クラリス。森の外に出てはいけないよ。私達はこの森の中で生きて、そしていつかは自然に帰るんだ。森の外には、クラリスを傷つけるものがたくさんあるからね。森の人は、森の中にいるから森の人なんだ。森から出たら、森の人とは呼べないだろう?」
それは何度も何度も言い聞かされたお母様の言葉です。クラリスはその言いつけを頑なに守り、冒険好きの友達にそそのかされても決して森の外に出る事はありませんでした。
しかし——クラリスが森の外に出る事はなくても、森の外の人は彼女たちをそっとしておいてはくれませんでした。
しんと静まり返った夜の事でした。皆が夢の世界に沈む中、クラリスは密かに夜更かしをしておりました。手のひらに集まった風の精霊が、ぼんやりと薄闇を照らします。
「星の精霊さんも、いるのかな。あの空の向こうには何があるんだろう……」
木々の隙間から覗く満天の星空に手を伸ばし、クラリスは呟きます。精霊はチカチカと発光しながら、蛍のように飛び回りました。精霊は言葉を話す事はありません。森の人にできるのは、心を同調させる事。言葉がなくても、心が寄り添えば友達にはなれるのです。
「ふふっ、知らないよね。そう、知ってるはずがない……だって、森の外には誰も出ないから……お空の事も、誰も知らない」
そう漏らすと僅かな寂寥感がクラリスを襲いましたが、しかし外の世界への好奇心は森の中の安定した暮らしの前では簡単に収まりました。傷つく世界に出て行く必要はないとのお母様の言葉が、彼女の憧れを断ち切ります。
クラリスは地面に寝そべると、目を閉じて風の精霊へと心を重ねました。優しい風が彼女の体を包み、ふわりと浮かびます。そのまま腕を広げれば、無重力の心地良さが心に染み込みます。彼女はこうして夜を過ごす事が好きでした。薄く瞼を開けば、綺麗な満月が夜空を照らしています。思わず微笑みがこぼれました。
けれど不意に身を包んでいた風が消え——クラリスは地面に背中を打ちました。
「痛っ……ちょっと、痛いよ……もう、どうしたの?」
風の精霊と友達になったばかりの頃は、うまく心を通わせる事ができずにこうして落っこちたものでした。昔を思い出して苦笑していると、違和感がクラリスを襲います。風の精霊の心がどこにもありません。心だけではなく、夜を照らしていた精霊の姿そのものが忽然と消えていました。
精霊がいなくなるのは珍しい事ではなく、すぐにへそを曲げる精霊もいます。しかしクラリスは何だか嫌な予感がしました。果たして、その予感は的中してしまいます。森の奥深くから、不気味な音が響いてきました。
ガシャン、ガシャン、という聞きなれない音。たくさんの人が行進しているようにも聞こえます。でも、一体誰が。クラリスの心に、初めて戦争というものを知った時以来の、恐怖が押し寄せてきました。
赤い赤い、まるで血のような光が森を照らしています。クラリスは咄嗟に身を隠し、ついに姿を見せた人達を息を殺して眺めました。それは、お母様が教えてくれた、森の外の人でした。鈍色の甲冑に身を包み、木々を燃やした松明を手にしています。その腰にはありとあらゆる命を奪うともいう、剣。人を殺めるための武器を初めて目にしたクラリスは、不安と恐怖に心が塗り潰されていくのを感じました。
鈍色の甲冑の一団が動きを止めると、その先頭に一人の女性がいる事にクラリスは気付きます。夜に溶け込む闇色の鎧を身に付けた、銀髪の女性。赤々と燃える松明に照らされる薄紫色の瞳はとても鋭く、思わず身がすくみました。ギロリと辺りを見渡すその目に、捕まったような気がしたからです。確かに目が合ったように思ったのですが、しかし銀髪の女性はクラリスには気付いていない様子でした。
クラリスが安堵に思わずため息をついたと同時に——銀髪の女性が、松明を放り投げました。その光景は、クラリスには非常にゆっくりと感じられました。ごうごうと燃える松明。命をじわじわと削られている木の悲鳴が聞こえてくるようでした。その炎が投げられた先は、静かに寝息を立てている皆のところでした。
その夜の事を、クラリスが忘れた事はありません。暮らしてきた世界、森は焼かれました。お母様もお父様もお友達も全部、目の前で焼かれていきました。眠りから覚めた皆を襲ったのは激しい痛みと絶望。その全てが、クラリスの心に流れ込んできました。森の外からやってきた悪魔は、何も言わずに人を殺し、木々を殺し、そしてその光景を眺めていたクラリスの心を殺しました。優しい女の子はその日、死にました。
焼けた遺体を見つめる少女の目に、光は灯っていません。そこにあるのはただ、激しい怒り。炎のように燃え上がる怒りでした。その怒りに、炎の精霊が付け込みます。炎の精霊は、風の精霊のように穏やかな性格をしてはいませんでした。憤怒に染まるクラリスの心を軽く一押しし、彼女は——復讐に取り憑かれてしまいました。
森の外からやってきた悪魔に全てを奪われたクラリスは、もう森の人と呼ばれる事はありませんでした。彼女は森の魔女。炎を操り人々を焼き焦がす、森の外の全ての人に恐れられる存在となってしまったのです。
彼女は今日も、まるで亡霊のようにさまよい続けています。全てを奪った、銀髪の女騎士への復讐を果たすためだけに。
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