ある日曜日、目覚めた少女はその身に異変を感じた。体が痺れている。ぴりぴり、ぴりぴりと。ベッドから身を下ろし床を指先でしっかり踏んでみる。しかし感触が無い。床を感じられない。まるでふわふわと浮遊しているかのような錯覚が少女を襲う。
階下からは怒鳴り声が聞こえた。それは両親の声。いつもなら、聞いているだけで吐き気を催しそうな耳障りな声。だが、今朝の彼女は不思議と苛立ちを覚える事はなかった。
それよりも体の異変が気になる。脳が洗われているようなくすぐったさの中に幸福を感じるのだ。気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。しかし少女には何が気持ちいいのか分からなかった。分からないけれど、ひたすらに気持ちがいい。足取りが軽い。生まれ変わったかのようだ。幸せで幸せで幸せで、その原因は分からなかったがどうでも良かった。幸せなのだから、それでいい。
左手が奇妙に熱かった。ふと、視線をやる。カッターナイフを、力いっぱいに、握りしめていた。ああ、熱かったのは私の血か、と少女は他人事のように納得する。見渡せばベッドもだいぶ赤くなっているようだ。少女はカッターナイフを手放した。痛みはなかった、ただ気持ちが良かった。
ご飯を食べようとしたら、皿の割れる音がした。母親の悲鳴が耳に届く。いつもの事だ。けれど今日はいつもと少しだけ違う。まるで自分が超人にでもなったみたいに、何でもできる気がした。全ての存在が小さく見えた。
ふと視線を両親の方へやると、非現実的な光景が広がっていた。鼻が折れているのか、母親の顔面は血に染まっていた。その手には包丁が握られていて、父親の腹部に刺さっていた。
ああ、殺した。
少女は泣きながらごめんなさいと連呼する母親を見ながら、ただ一言そう思った。叫んでいた父親は動かない。母親は父親の体を揺すり、何度も何度もごめんなさいと謝っている。その姿に、少女は特に思う事はなかった。
今日は気持ちがいい。足取りも軽いし、まるで浮いているようだ。時々目の前が白くなるが、些細な事。今日、全てが終わるのだと確信した。
少女は家を出た。制服姿に身を包んではいるが向かう先は学校ではない。駅だ。今なら死ねると少女は確信していた。
ずっと、死にたかった。自分が嫌いだった。でも死ねなかった。死ぬのが怖かった。
けど今日は違う。思考が頭から抜け、鎖から解き放たれたような多幸感に満ち満ちていた。自分の体が自分のものでないようだった。動かそうとしないでも勝手に動いてくれる。そんな痺れるような感覚はとても気持ちが良かった。
車のクラクションが鳴り響いた。
一瞬にして、少女の世界には色が戻ってきてしまった。駅へ向かう途中の信号を、どうやら赤で渡っていたらしい。急に、現実が襲ってきた。
信号を急いで渡りきった少女は、左手がじんじんと熱くなってくるのを感じた。見ると、皮が裂け肉が見えている。忘れていた痛みを体が思い出してしまった。その場に少女はうずくまる。痛くて痛くて、涙が出た。
「お母さん……」
そんな言葉が口をついて出た。母親に助けてもらいたかった。しかしすぐにそれは不可能だと少女は思い出す。
「お母さんがお父さんを殺した」
ぽつりと呟いてしまった。まぶたに焼き付いたひどく非現実的に思えていた光景が、現実味を帯びてしまった。家にはもう、帰れない。帰ってしまったらそこには、血まみれの父親と、もしかしたら自殺した母親がいるかもしれないと思った。
「こんなはずじゃなかったのに」
こんな人生は望んではいなかった。もう終わりだ。少女はそう思った。
大粒の涙をこぼしながら少女は立ち上がり、目の前の車道を見つめた。
「死ねる、死ぬんだ、もう嫌、疲れた、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい」
呪詛のように繰り返しながら車を待った。駅まではまだ遠い。ここで車に轢かれて死のうと思った。
そして、車が来た。大きなトラックだった。近付いてくる。あとは少しだけ前に進めばいい、そうしたら楽になれる。
しかし身がすくんだ。そのトラックは家よりも大きく見えた。踏み出す事はできなかった。死ぬ事が、怖くなってしまった。
また次の車が来た。軽自動車だった。次こそ、死のう。そう思って踏み出す準備をするも、やはり踏み出す事はできなかった。怖くなってしまった。
三台目の車が来た。少女は思う。今度こそ、今度こそ死のう——。
三十分が経過し、少女はまだ生きていた。そして結論を出す。死ねるわけがない。嗚咽混じりに少女は泣いた。
すると。
「ねえ、さっきから何してるの?」
背後から声が聞こえた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り返ると、制服姿の知らない女の子がそこにはいた。今日は日曜日だというのに不思議な子だと少女は思ったが、自分も制服姿だと気付くと乾いた笑いが込み上げてきた。
「手、痛そうね」
カッターナイフの食い込んだ左手を見ている女の子の言葉に対抗するように、少女は涙を拭いながら女の子の手首を指差して言った。
「貴方も、痛そう」
無数に刻まれているのは、リストカットの痕だった。
「なんで、死のうと思ったの?」
気付けば公園のベンチに肩を並べて座っていた。響子と名乗った女の子が問いかけてくる。少女には明確な答えなどなかった。しかし沈黙は怖い。
「死にたかったから」
仕方なくそんな言葉を口にしてみた。すると響子は笑った。
「そっか、私と同じか」
響子は続ける。
「でもさ、嘘だよね」
少女は心臓がズキリと痛むのを感じた。心を全て見透かされてるような気がした。
「……何で、そう思うの」
「泣いてたから」
響子は少し悲しそうに笑う。
「実はさ、私も同じ事してたんだ。車に轢かれようとして、でも急に怖くなっちゃってできなくて。それで、なんか全部バカみたいに思えてボーっとしてたら、貴方が同じ事し始めた」
「見てたの?」
「見てたの」
恥ずかしさと情けなさが少女を襲った。
「なんで、死ねないんだろう」
「死にたいと思っても死ねる生き物じゃないんじゃないかなーって思った。もっと強い本能があるんだよ」
「…………生きたい」
「そ。それそれ」
響子は彼女の手首に刻まれた痛々しい自傷行為の痕を空へ伸ばすと言った。
「残念ながら、死にたいという思いは生きたいという本能に勝てないってわけ。だから、生きるしかないんだよね」
ぽつ、と額に雨粒が落ちてくるのを感じた。いつの間にか空が曇っている。
「降るね」
響子はそう言ったが立ち上がる様子はなかった。それは少女も同じで、ぽつぽつと雨がその身を濡らしていっても動こうとはしなかった。
雨の勢いは増し、やがて豪雨と呼んでも差し支えのないものになった。目を閉じるとシャワーを浴びている気分で、どこか心地がいい。少女は唐突に切り出した。
「お母さんが、お父さんを殺したの」
響子は答えない。少女とて、気の利いた返事を求めているわけではなかった。ただ気付けば口にしていた。
「包丁で、刺して。お父さんはよく殴る人だったから、耐えかねたんだと思う……限界で、それで、殺しちゃった」
激しい雨音にかき消されそうなほどに小さな声で淡々と紡いでいく。
「私も、死ななきゃって思って。ちょっとオカルトちっくだけど、魂が肉体から離れてるような感覚がして、死ねると思ったの。……響子さんが見た通り、死ねなかったけど」
隣に座っている響子へ視線を向けると、そこに響子の姿はなかった。少女は戸惑う。まるで雨に溶けてしまったように姿が見えない。辺りを見回してもそれらしい姿はなくて、言いようのない不安感に襲われた。
しかし、少女は背後からぎゅっと抱きしめられた。
「——生きててくれてありがとう」
響子の言葉は震えていた。
ずぶ濡れの髪を撫でられた少女は胸が高鳴るのを抑えられなかった。誰かに抱きしめられたのは初めてだった。自分の存在を、自分が生きていてもいいんだと言われた気がした。
響子は別れ際に、悲しい微笑みを少女に向けながら言った。
「ごめんね、私達は多分もう会えない。私はこれから、警察に行かなくちゃいけないから。それと——もし生きてたら、親の事は大切にしてあげて」
それだけ言うと、響子は踵を返し雨の中へ消えていった。引き止めたかったが、少女はその言葉を持ち合わせていなかった。
携帯が鳴った。母親からの着信だった。
「——お母さん?」
「…………お父さん、生きてるわ。今、病院。貴方も来て」
病院の名前だけを告げると、電話は切れてしまった。
少女はため息を吐いた。それが意味するものが安堵なのか不安なのか、少女には分からなかった。
ずぶ濡れのまま歩いていると、信号に差し掛かった。車が走っている。赤信号だ。
少女は信号が変わるのをおとなしく待った。
階下からは怒鳴り声が聞こえた。それは両親の声。いつもなら、聞いているだけで吐き気を催しそうな耳障りな声。だが、今朝の彼女は不思議と苛立ちを覚える事はなかった。
それよりも体の異変が気になる。脳が洗われているようなくすぐったさの中に幸福を感じるのだ。気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。しかし少女には何が気持ちいいのか分からなかった。分からないけれど、ひたすらに気持ちがいい。足取りが軽い。生まれ変わったかのようだ。幸せで幸せで幸せで、その原因は分からなかったがどうでも良かった。幸せなのだから、それでいい。
左手が奇妙に熱かった。ふと、視線をやる。カッターナイフを、力いっぱいに、握りしめていた。ああ、熱かったのは私の血か、と少女は他人事のように納得する。見渡せばベッドもだいぶ赤くなっているようだ。少女はカッターナイフを手放した。痛みはなかった、ただ気持ちが良かった。
ご飯を食べようとしたら、皿の割れる音がした。母親の悲鳴が耳に届く。いつもの事だ。けれど今日はいつもと少しだけ違う。まるで自分が超人にでもなったみたいに、何でもできる気がした。全ての存在が小さく見えた。
ふと視線を両親の方へやると、非現実的な光景が広がっていた。鼻が折れているのか、母親の顔面は血に染まっていた。その手には包丁が握られていて、父親の腹部に刺さっていた。
ああ、殺した。
少女は泣きながらごめんなさいと連呼する母親を見ながら、ただ一言そう思った。叫んでいた父親は動かない。母親は父親の体を揺すり、何度も何度もごめんなさいと謝っている。その姿に、少女は特に思う事はなかった。
今日は気持ちがいい。足取りも軽いし、まるで浮いているようだ。時々目の前が白くなるが、些細な事。今日、全てが終わるのだと確信した。
少女は家を出た。制服姿に身を包んではいるが向かう先は学校ではない。駅だ。今なら死ねると少女は確信していた。
ずっと、死にたかった。自分が嫌いだった。でも死ねなかった。死ぬのが怖かった。
けど今日は違う。思考が頭から抜け、鎖から解き放たれたような多幸感に満ち満ちていた。自分の体が自分のものでないようだった。動かそうとしないでも勝手に動いてくれる。そんな痺れるような感覚はとても気持ちが良かった。
車のクラクションが鳴り響いた。
一瞬にして、少女の世界には色が戻ってきてしまった。駅へ向かう途中の信号を、どうやら赤で渡っていたらしい。急に、現実が襲ってきた。
信号を急いで渡りきった少女は、左手がじんじんと熱くなってくるのを感じた。見ると、皮が裂け肉が見えている。忘れていた痛みを体が思い出してしまった。その場に少女はうずくまる。痛くて痛くて、涙が出た。
「お母さん……」
そんな言葉が口をついて出た。母親に助けてもらいたかった。しかしすぐにそれは不可能だと少女は思い出す。
「お母さんがお父さんを殺した」
ぽつりと呟いてしまった。まぶたに焼き付いたひどく非現実的に思えていた光景が、現実味を帯びてしまった。家にはもう、帰れない。帰ってしまったらそこには、血まみれの父親と、もしかしたら自殺した母親がいるかもしれないと思った。
「こんなはずじゃなかったのに」
こんな人生は望んではいなかった。もう終わりだ。少女はそう思った。
大粒の涙をこぼしながら少女は立ち上がり、目の前の車道を見つめた。
「死ねる、死ぬんだ、もう嫌、疲れた、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい」
呪詛のように繰り返しながら車を待った。駅まではまだ遠い。ここで車に轢かれて死のうと思った。
そして、車が来た。大きなトラックだった。近付いてくる。あとは少しだけ前に進めばいい、そうしたら楽になれる。
しかし身がすくんだ。そのトラックは家よりも大きく見えた。踏み出す事はできなかった。死ぬ事が、怖くなってしまった。
また次の車が来た。軽自動車だった。次こそ、死のう。そう思って踏み出す準備をするも、やはり踏み出す事はできなかった。怖くなってしまった。
三台目の車が来た。少女は思う。今度こそ、今度こそ死のう——。
三十分が経過し、少女はまだ生きていた。そして結論を出す。死ねるわけがない。嗚咽混じりに少女は泣いた。
すると。
「ねえ、さっきから何してるの?」
背後から声が聞こえた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り返ると、制服姿の知らない女の子がそこにはいた。今日は日曜日だというのに不思議な子だと少女は思ったが、自分も制服姿だと気付くと乾いた笑いが込み上げてきた。
「手、痛そうね」
カッターナイフの食い込んだ左手を見ている女の子の言葉に対抗するように、少女は涙を拭いながら女の子の手首を指差して言った。
「貴方も、痛そう」
無数に刻まれているのは、リストカットの痕だった。
「なんで、死のうと思ったの?」
気付けば公園のベンチに肩を並べて座っていた。響子と名乗った女の子が問いかけてくる。少女には明確な答えなどなかった。しかし沈黙は怖い。
「死にたかったから」
仕方なくそんな言葉を口にしてみた。すると響子は笑った。
「そっか、私と同じか」
響子は続ける。
「でもさ、嘘だよね」
少女は心臓がズキリと痛むのを感じた。心を全て見透かされてるような気がした。
「……何で、そう思うの」
「泣いてたから」
響子は少し悲しそうに笑う。
「実はさ、私も同じ事してたんだ。車に轢かれようとして、でも急に怖くなっちゃってできなくて。それで、なんか全部バカみたいに思えてボーっとしてたら、貴方が同じ事し始めた」
「見てたの?」
「見てたの」
恥ずかしさと情けなさが少女を襲った。
「なんで、死ねないんだろう」
「死にたいと思っても死ねる生き物じゃないんじゃないかなーって思った。もっと強い本能があるんだよ」
「…………生きたい」
「そ。それそれ」
響子は彼女の手首に刻まれた痛々しい自傷行為の痕を空へ伸ばすと言った。
「残念ながら、死にたいという思いは生きたいという本能に勝てないってわけ。だから、生きるしかないんだよね」
ぽつ、と額に雨粒が落ちてくるのを感じた。いつの間にか空が曇っている。
「降るね」
響子はそう言ったが立ち上がる様子はなかった。それは少女も同じで、ぽつぽつと雨がその身を濡らしていっても動こうとはしなかった。
雨の勢いは増し、やがて豪雨と呼んでも差し支えのないものになった。目を閉じるとシャワーを浴びている気分で、どこか心地がいい。少女は唐突に切り出した。
「お母さんが、お父さんを殺したの」
響子は答えない。少女とて、気の利いた返事を求めているわけではなかった。ただ気付けば口にしていた。
「包丁で、刺して。お父さんはよく殴る人だったから、耐えかねたんだと思う……限界で、それで、殺しちゃった」
激しい雨音にかき消されそうなほどに小さな声で淡々と紡いでいく。
「私も、死ななきゃって思って。ちょっとオカルトちっくだけど、魂が肉体から離れてるような感覚がして、死ねると思ったの。……響子さんが見た通り、死ねなかったけど」
隣に座っている響子へ視線を向けると、そこに響子の姿はなかった。少女は戸惑う。まるで雨に溶けてしまったように姿が見えない。辺りを見回してもそれらしい姿はなくて、言いようのない不安感に襲われた。
しかし、少女は背後からぎゅっと抱きしめられた。
「——生きててくれてありがとう」
響子の言葉は震えていた。
ずぶ濡れの髪を撫でられた少女は胸が高鳴るのを抑えられなかった。誰かに抱きしめられたのは初めてだった。自分の存在を、自分が生きていてもいいんだと言われた気がした。
響子は別れ際に、悲しい微笑みを少女に向けながら言った。
「ごめんね、私達は多分もう会えない。私はこれから、警察に行かなくちゃいけないから。それと——もし生きてたら、親の事は大切にしてあげて」
それだけ言うと、響子は踵を返し雨の中へ消えていった。引き止めたかったが、少女はその言葉を持ち合わせていなかった。
携帯が鳴った。母親からの着信だった。
「——お母さん?」
「…………お父さん、生きてるわ。今、病院。貴方も来て」
病院の名前だけを告げると、電話は切れてしまった。
少女はため息を吐いた。それが意味するものが安堵なのか不安なのか、少女には分からなかった。
ずぶ濡れのまま歩いていると、信号に差し掛かった。車が走っている。赤信号だ。
少女は信号が変わるのをおとなしく待った。
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